能楽夜ばなしⅡ 2025 年11月3日更新 はじめての矢来能楽堂 上演後記
能楽夜ばなしⅡ
公演案内ページを作りました。
シテ以外にも全てはありませんが、 感想などコメントします。随時削除更新して過去コメントはアーカイブの方に移動します。
11月1日。
日付変わって一昨日。はじめての矢来能楽堂という公演で、安達原白頭のシテで出演致しました。
ご来場誠にありがとうございました。
当日も詳しい解説がありましたが、振り返りまして書いておきます。
安達原は、昔話の鬼婆が登場する、とてもわりやすいストーリーで、比較的上演頻度の高い演目です。私も能楽堂をはじめ、劇場公演や学校公演で何度かさせていただいておりますが、後場の白頭の演出は、今回初めてさせていただきました。
これ、作られた当時、きっとホラー&サスペンスの怪奇物語で、かなりセンセーショナルな能台本だったに違いありません。
能では、女はその罪の重さに耐えかね、救いを求めているように感じられる独白や、細い麻糸を巻く作業の中のセリフや所作の細かなところに、狂気と裏腹な危うげで切ない人生を読み取ることが出来ます。
また、その糸巻きの労働歌として歌われるロンギといわれる地謡との掛け合いの謡いには、この女が都の出身を思わせるような歌詞が混じり、都の匂いを感じ取ることが出来ます。
物語の舞台となった福島県の二本松市には、現在も「いわて」という鬼婆の伝説と昔話が伝えられて、伝承地も残っています。(私も史跡巡りで二度ほど立ち寄ったことがあります。東北道二本松インターからほど近いところです。今は明るい観光地です。)
今回の公演は、全くはじめて能を見る方も多いので、能の細かな演出を見る余裕がなかったかもしれませんが、能の台本や演技の中にも元になる伝説に通じる細かなヒントが散りばめられていて、その辺を各自空想しながら見ていただくのも、能の楽しい見方です。
今回、初めての方に、わかりやすくということで、面は痩せ女という種類の面を使いました。これは江戸時代の銘品でしたが、はっきりした少し気味の悪さもある複雑な表情の出る面でした。
装束も、それに合わせて使い込まれた古い品を使わせていただき、昔話を盛り上げてくれたように思います。
この安達原の女、行き暮れて宿を乞う紀伊の那智から来た諸国行脚の阿闍梨を迎え、その訪れを最初は拒みますが、やがて家に迎入れます。
これが、ただの旅人であったならば、また恐ろしい罪を重ねていたに違いありませんが、仏の道を歩む阿闍梨であったので、この女に残された微かな仏心、そして救いを求める心が、聖者への畏れと共に阿闍梨を迎え入れます。
阿闍梨に救いを求める心、しかし秘密を知られやしないかという不安、その罪の重さ。後悔。そして、もしかしたら抑えても湧き上がる殺人の衝動なんてものもあったかもしれません。
安達原の前場の女には、様々な葛藤や、その奇妙な人生の形跡が重なって見える気がします。
やがて、暖をとる焚火ための木を探しに山に行くことを申し出ます。
女は一度振り返りすぐに足早に山に消えます。
本当に山に行ったのか、聖者から逃げ出したのか。。
女と阿闍梨との約束は、阿闍梨の荷を運ぶ言い付けを守らない疑り深い付き人によって破られ、隠していた部屋の扉が開けられ、ついに女の恐ろしい罪が暴かれます。
凄惨な証拠を見た阿闍梨達は、鬼の住処と悟り逃げ出します。
この場面。能では、一つの小屋の作り物(大道具)が、家を表したり、鬼婆の秘密の部屋を表したりするのも、独特の演出です。
後半の鬼の本性を表した鬼女は、背中に薪を背負っていました。
本当に阿闍梨の為に薪木を取りに行っていたのですね。
まあ、大罪人の勝手な言い分とも言えるのですが、裏切られた女の切ない心の叫びです。
恐ろしい鬼なのに、そうなってしまったことが悲しいです。
昨日の鬼の面。般若の面は、明治時代のもので、今回はじめて安達原で使いました。なかなか迫力のある面で、この曲にはあっていたのではないかと思います。般若と阿闍梨の対決は、祈りと呼ばれる場面で、阿闍梨の法力によって調伏されます。この祈りは、ほかに道成寺と葵上の作品でも見る事が出来ます。
というわけで、お楽しみにいただけたらば幸いです。
ご来場賜りましてありがとうございました。
また、終演後のフォトセッションでは、フラッシュを浴びる程撮影いただきありがとうございました。SNSに上げていただけたら幸いです。
初めての方は、これを機に、また矢来能楽堂に気軽にご来場いただけたら嬉しいです。
矢来能楽堂では、毎月定期公演も行なっています。
矢来能楽堂出身の若手から超ベテランまで、ここを大切な舞台と思って勤めています。
定期公演では、様々な演目を上演していますので、最初はストーリーのわかりやすい作品から選んで観ると良いかもしれません。
気軽に矢来能楽堂に観能にお越しいただけたら嬉しいです。
ご来場誠にありがとうございました。
当日も詳しい解説がありましたが、振り返りまして書いておきます。
安達原は、昔話の鬼婆が登場する、とてもわりやすいストーリーで、比較的上演頻度の高い演目です。私も能楽堂をはじめ、劇場公演や学校公演で何度かさせていただいておりますが、後場の白頭の演出は、今回初めてさせていただきました。
能では、白頭は特殊演出で位が重く、通常は前場の女は中年の女性で演じ、後場も黒髪で演じるのが標準スタイルです。今回はスペシャルということで、白頭で上演させていただきました。
白になると面装束も変わり、より昔話の老婆のイメージに近くなります。
他にも後場を黒頭にしたり様々な演出が相伝されています。
安達原は、能の古典台本を原文を見ずに音で聴くと、現代では聞き慣れない音の言葉なので、あまり怖くないというか、ピンときませんが、この安達原の女は、まさに大量殺人鬼で、その寝室には恐ろしいその殺戮の証拠が、軒の高さまで積み上がっていると、後半の阿闍梨の言葉で語られます。(現代語に直すと生々しくてかなり怖いです)実写ならばとても描けないよな恐ろしい映像になりますが、そこは能の省略演出の良さが幸いしています。
能の台本では、女が、何故そのような人生を送るようになったか、その過去は全く語られないのですが、安達原の鬼婆の伝説は、古来より世に知られた話で、観客もそれを知っているのを前提に作られていると思います。(二本松市 鬼婆伝説で検索下さい)
能では、女はその罪の重さに耐えかね、救いを求めているように感じられる独白や、細い麻糸を巻く作業の中のセリフや所作の細かなところに、狂気と裏腹な危うげで切ない人生を読み取ることが出来ます。
また、その糸巻きの労働歌として歌われるロンギといわれる地謡との掛け合いの謡いには、この女が都の出身を思わせるような歌詞が混じり、都の匂いを感じ取ることが出来ます。
物語の舞台となった福島県の二本松市には、現在も「いわて」という鬼婆の伝説と昔話が伝えられて、伝承地も残っています。(私も史跡巡りで二度ほど立ち寄ったことがあります。東北道二本松インターからほど近いところです。今は明るい観光地です。)
今回の公演は、全くはじめて能を見る方も多いので、能の細かな演出を見る余裕がなかったかもしれませんが、能の台本や演技の中にも元になる伝説に通じる細かなヒントが散りばめられていて、その辺を各自空想しながら見ていただくのも、能の楽しい見方です。
今回、初めての方に、わかりやすくということで、面は痩せ女という種類の面を使いました。これは江戸時代の銘品でしたが、はっきりした少し気味の悪さもある複雑な表情の出る面でした。
装束も、それに合わせて使い込まれた古い品を使わせていただき、昔話を盛り上げてくれたように思います。
この安達原の女、行き暮れて宿を乞う紀伊の那智から来た諸国行脚の阿闍梨を迎え、その訪れを最初は拒みますが、やがて家に迎入れます。
これが、ただの旅人であったならば、また恐ろしい罪を重ねていたに違いありませんが、仏の道を歩む阿闍梨であったので、この女に残された微かな仏心、そして救いを求める心が、聖者への畏れと共に阿闍梨を迎え入れます。
阿闍梨に救いを求める心、しかし秘密を知られやしないかという不安、その罪の重さ。後悔。そして、もしかしたら抑えても湧き上がる殺人の衝動なんてものもあったかもしれません。
安達原の前場の女には、様々な葛藤や、その奇妙な人生の形跡が重なって見える気がします。
能台本には細かな描写はなく、また能は定型の型のある演劇なのですが、演者の解釈や演技で、人物に幅が出てくるのも見どころです。
そして阿闍梨に、決して寝室を見ないようにと、三度念をついて約束を交わし家を出ます。
女は一度振り返りすぐに足早に山に消えます。
本当に山に行ったのか、聖者から逃げ出したのか。。
女と阿闍梨との約束は、阿闍梨の荷を運ぶ言い付けを守らない疑り深い付き人によって破られ、隠していた部屋の扉が開けられ、ついに女の恐ろしい罪が暴かれます。
凄惨な証拠を見た阿闍梨達は、鬼の住処と悟り逃げ出します。
この場面。能では、一つの小屋の作り物(大道具)が、家を表したり、鬼婆の秘密の部屋を表したりするのも、独特の演出です。
後半の鬼の本性を表した鬼女は、背中に薪を背負っていました。
本当に阿闍梨の為に薪木を取りに行っていたのですね。
しかし、約束を破られ、罪を暴かれた女は、ついに鬼の本性を現すのです。後場の冒頭、阿闍梨を追いかけ、隠していた寝屋の秘密を明かされた恨みを言いに来たと叫びます。
まあ、大罪人の勝手な言い分とも言えるのですが、裏切られた女の切ない心の叫びです。
恐ろしい鬼なのに、そうなってしまったことが悲しいです。
昨日の鬼の面。般若の面は、明治時代のもので、今回はじめて安達原で使いました。なかなか迫力のある面で、この曲にはあっていたのではないかと思います。般若と阿闍梨の対決は、祈りと呼ばれる場面で、阿闍梨の法力によって調伏されます。この祈りは、ほかに道成寺と葵上の作品でも見る事が出来ます。
能のエンディングは、恐ろしくもあさましい所業を阿闍梨に見あらわされて恥ずかしいと鬼が逃げ失せたところで舞台は終わり、余韻が残る終わり方になっています。これも小書(今で云う特殊演出ならではの終わり方でした。)
というわけで、お楽しみにいただけたらば幸いです。
ご来場賜りましてありがとうございました。
また、終演後のフォトセッションでは、フラッシュを浴びる程撮影いただきありがとうございました。SNSに上げていただけたら幸いです。
初めての方は、これを機に、また矢来能楽堂に気軽にご来場いただけたら嬉しいです。
矢来能楽堂では、毎月定期公演も行なっています。
矢来能楽堂出身の若手から超ベテランまで、ここを大切な舞台と思って勤めています。
定期公演では、様々な演目を上演していますので、最初はストーリーのわかりやすい作品から選んで観ると良いかもしれません。
気軽に矢来能楽堂に観能にお越しいただけたら嬉しいです。
またのご来場お待ちしています。

