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能楽夜ばなしⅡ 2026年 10月14日日更新 10月九皐会定例第1部 頼政 御礼 UP

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能楽夜ばなしⅡ 公演案内ページを作りました。 シテ以外にも 全てはありませんが、   感想などコメントします。 随時削除更新して過去コメントはアーカイブの方に移動します。   10月11日矢来能楽堂 観世九皐会10月定例会代1部 能「頼政」終了いたしました。お陰様で満員御礼となりました。 ご来場賜りましたお客様には、厚く御礼申し上げます。 今回お借りしました能面は、江戸時代中期の専用面、また装束は、父六郎が、九皐会で頼政を勤めた時のものをお貸しいただきました。 その時の父の記録映像が、残っていまして、それを超える舞台をするんだと思っていたわけであります。 不思議なもんで、この年になると稽古場の鏡に写る自分の姿が、その年頃の生前の父に見えてきまして、それはちょっと気味悪いほど姿がよく似ていまして、その姿に抗うように稽古をしていました。 まあ、舞台はシテ一人で出来上がるわけではないので、共演者、後見、地謡、囃子、楽屋、師匠先輩後輩と、その時代の人達に囲まれて、ようやくやれるわけなんですが、父の時代の人達の舞台に近づきたい、超えたいと思うわけです。 さて、どうだったか。 「まだまだ」と。 声が聞こえたような、空耳みだったような。 頼政は、父や先輩達は、当時涼しい顔してやっているように見えましたが、どうしてどうして、実は結構キツかったのではないかと演じてみて思います。 私自身、この曲を、この先、更に歳を重ねて、頼政の実年齢で演じるのは大変だろうと思いました。全身のエネルギーを抑えて縛り出す一期一会の一番でした。 それにしても頼政77歳の戦さ。 どんな心境だったのでしょうね。事情はどうあれ、腹をくくったその覚悟が凄いなあ。。。 と、思いを馳せつつ今回はこれにて終了。 誠に有難うございました。ブログのアーカイブに解説移します。 また、今回所沢ミューズさんの方で、能楽堂鑑賞ツアーを企画いただき、そちらのお客様もお越し下さいまして、矢来能楽堂の雰囲気をお楽しみいただけたなら幸いです。 参加された皆様、関係者の皆様、誠にありがとうございました。 さて来月11月は、新潟公演 大曲「大原御幸」のシテ、建礼門院です。 私的には今年最大の山場。 実は頼政の翌日、新潟に行きまして劇場と打合せして来ましたので、気持ちはすっかり大原御幸に切り替...

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アーカイブページです。過去記事はこちらからどうぞ。 22日土曜日 所沢ミューズのマーキーホールでの「触れてもみよう能楽の世界」無事に終了しました。お陰様で今年も満員御礼でした。 *10月2日 頼政のチケット、完売しました。 誠にありがとうございます。 私がシテを勤めます10月11日(日)12時半開演 九皐会定例公演第1部「頼政」が近づきました。 頼政の解説をUP致します。 頼政という人は、摂津源氏という血筋で、能「土蜘蛛」で登場する源頼光の子孫です。頼政は 1104年生まれ。およそ900年前に生きた人です。 摂津源氏は、朝廷の守護の役目を果たしてきた武士の一族です。 後に源平の戦を制した源頼朝の河内源氏の一族は、頼光の弟、頼信の子孫です。 源氏といっても、血筋が分かれているのですね。 源頼政の挙兵の経緯 平安時代末期、武士団が政治の表舞台に進出し、源氏と平家の対立が深まる中、保元・平治の乱を経て平清盛が権力を握りました。 源頼政は源氏でありながら、平治の乱では後白河院方として清盛側に属し、生き残ったものの、源氏出身ゆえに冷遇されます。 約二十年後、清盛の推挙によりかぞえ  75 歳で従三位  に昇進しますが、これは源氏としては異例の高位でした。故に源三位頼政(げんざんみよりまさ)と呼ばれます。 しかし 1180 年、後白河法皇の第二皇子・以仁王が平家打倒の令旨を発します。頼政はこれに応じ、しかし、すぐに清盛に知られ、以仁王とともに都を離れ援軍を求め南都へ向かいます。 途中、宇治で平家軍に追いつかれ、ここで戦となり、頼政は敗れて自害しました。 (*最晩年に挙兵した理由は諸説あり、『平家物語』では「源氏の矜持」と描かれます。) 能「頼政」の進行 (※ストーリーの結末に触れています) ※ 本稿は、謡曲『頼政』や『平家物語』、能楽鑑賞をもとにした個人的な解説・感想です。学術的な考証を目的としたものではなく、解釈には異説もありますので、ご参考としてお読みください。 能の前半 後半の橋合戦の戦語りに向けて、多くの伏線と暗示が張り巡らされています。 ① ワキ旅僧の登場 遠国から来た諸国巡りの旅僧が都を巡り、南都へ向かう途中、宇治までやって来ます。 (頼政もまた都を出て南都・興福寺を目指し、その途中で宇治において平家方に追いつかれ、戦闘になった史実を踏まえています...